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今回出てくるマイナー武将。
真田信之:幸村の兄。伊豆守。本多忠勝の娘を正室とし、真田の命脈を絶賛繋ぎ中。
小笠原秀政:松本領主。天王寺の戦いで毛利勝永にやられて長男とともに戦死した。
小笠原忠真:秀政の次男。史実では宮本武蔵が仕えたこともあるが、当然そんなの関係ねぇ。
5月11日。
大野治長、真田幸村ら大坂方の使節が松平忠輝、徳川義直、伊達政宗のいる名古屋城に到着した。
形式的な挨拶を交わすと、政宗と幸村が二人で名古屋城の二の丸に入る。和睦をするに際し、条件についての下交渉をするためである。
「伊達陸奥守政宗でござる」
「真田左衛門佐幸村にござる」
同じ歳の二人が挨拶をする。
「先日の貴殿の戦いは見ておった。まことに見事というしかござらぬ」
政宗が幸村を褒める。その様子には悔しさを押し隠しているというような様子はない。むしろ本当に感謝しているかのようであった。
実際、政宗は幸村に感謝していたのであるが。
「何の。此度は類稀な幸運に恵まれてのこと。本来ならば内府殿の天下定まりしところ、横槍を入れて申し訳ござらぬ」
「これは異なことを言われる。内府殿の天下を阻むために大坂に入られたのではござらぬのか?」
政宗が片目を細めて言う。
「確かにそうなれど、内府殿を阻むというよりは…」
「武門の意地、というやつでござろうか?」
「左様にござる」
「なれば真田殿、武門の意地果たされた今、何をしようと考えておられる?」
「む…?」
「秀頼公から近江・彦根あたりにでも10万石を受取り、今後も我ら徳川勢を阻まれるおつもりか?」
「…そのようなことは考えてござらぬ」
幸村はやや慌てた様子で答える。
「まだ和睦も決まってござらぬのに領地のことなど。とりあえず和睦を成し、あとは秀頼公のご指示を待つのみ」
「真田殿」
政宗が正座の姿勢で半歩ほどにじり寄る。
「…信濃が欲しゅうはござらぬか?」
「……」
「小笠原兵部少輔が戦死したので松本8万石が空いておる。わしがうまく図って伊豆守殿(真田信之)を通じて貴殿にくれてやろう。そしてうまくいった暁には…」
政宗の声は既に十分落とされているが、更に小さな声で言う。
「信濃だけでなく上野と甲斐も真田殿に差し上げよう」
幸村は思わず生唾を飲み込んだ。
家康・秀忠が死んだ以上、当然幕府内では後継を巡る騒動が起きる。その中で最有力なのは松平忠輝と伊達政宗であり、幸村自身や大坂方の総意としては、彼らに徳川方を乗っ取らせるよう仕向けるつもりでいた。
とはいえ、もちろん徳川方も政宗と忠輝に簡単に幕府の権限を渡すとは思えない。四天王の一族や本多正純などが妨害をしてくるであろうことは幼子にでも予想できることである。
彼らが伊達政宗に勝てるかというと勝てるとは思わない。しかし、佐竹義宣なども加えて反伊達勢を結成すればそうそう簡単に伊達が勝つともいかないだろう。
そこまでは幸村も当然予測していたが、その先、伊達政宗が誰を引き込むかということについては自分が徳川方にいないことから想像していなかった。
そこで突然の勧誘である。
関ヶ原で石田三成が幸村の父真田昌幸に約束していたのは信濃を含む三ヶ国である。昌幸は上田で秀忠軍を食い止め、三国を受け取るにふさわしい働きをしたが、関ヶ原で石田三成が敗れたために実現しなかった。兄信之は西軍にいたということもあって、加増されたがそれにしても一国支配にも至っていない。
幸村に一国支配の可能性がなかったわけではない。夏の陣の直前に家康から一国と引き換えに大坂を出よという誘いがあった。
それは武門の意地もあって受けることはできなかったが、意地を果たした現在は、特にこだわることもない。
今、再び真田が三ヶ国を所有できるかもしれない好機がぶらさがっている。
しかも、父祖伝来の地上野を約束されると…
「……」
「今は話だけにしておこう。本当に貴殿がわしの下に来るのなら、その時は誓詞を差し出してもよい。花押に穴も開けておくでな」
政宗はそう言って笑う。
花王の穴、というのはかつて大崎一揆の際のことである。政宗が裏で一揆を扇動していたのではないかと疑った豊臣秀吉や蒲生氏郷らが政宗が一揆側人物にあてた書状を発見し、政宗を問い詰めたのであるが、政宗はそれが偽文であると主張、自分の花押には針で小さな穴を開けてあるというのがその理由で実際、一揆衆への書状には穴がなく、その他の書状には穴があったことから政宗の嫌疑は晴れたという事件であった。
「今は和睦が先決じゃ。条件を聞こう」
「はっ。まずは内府殿と秀忠殿の首と体を返還いたす」
「うむ」
「それで京は豊臣方が支配…」
幸村は自分の言葉に驚いた。彼は「我々豊臣方」というつもりだったのが、実際の言葉からは我々が抜けていたのである。
「豊臣方が支配してござるが、忠輝殿の使節の通行は認めることにいたす。そのうえで徳川家の誰かが征夷大将軍位を承継することには、大坂は反対しないつもりでござる」
「あざとうござるな。だが、有難く受け入れよう」
「替わりに、豊臣方としては近江・大和の領有権を認めていただきたい」
「…そのあたりで妥当であろうな」
「あと、前の関ヶ原の戦いの折、流刑にされた宇喜多殿の流刑を解いていただきとうござる」
「良かろう」
政宗の即答に幸村はけげんな顔をして、再度確認する。
「宇喜多前中納言殿のことでござるが、本当によろしゅうござるか?」
「構わぬ。前田筑前守が大坂方についた時点で予測しておった」
「左様でござるか」
「千姫はいかがされる?」
「秀頼公とは仲むつまじく、将軍殿の死を聞いても大坂に留まるつもりでございます」
「なれば、その儀はまた後で決めるがよろしかろうな。こんなところか」
政宗は腕を組む。
「どちらが得をしているのかよう分からぬが、他人の家の戦であれば、和睦条件などどうとでもいい気になるものだ」
「どちらも得になると思うから、和睦がされるのでありましょう」
「然り」
政宗は頷いた。
「ただ、今は大坂にいる某から見ても伊達殿にとっては非常に有利な条件でござる」
「だと有難い。だが…」
「だが…」
「もう少しわしのところで働く者が欲しい」
「伊達殿の下には十分過ぎるほどおるかと思いますが」
「いやいや、少なくとも内府や秀頼公に比べると。おまけに残念ながらわしの腹心を務めておった小十郎景綱はもう長くはないとのことだ。重長は若い割にゆうやっておるが…」
「道明寺での片倉殿の働きは某も感服つかまつりました」
「ほう、関東に男はおらぬと申していたとのことだが?」
政宗がにやりと笑う。幸村は照れ笑いで応じた。
「それは確かでござるが、あの戦いでの片倉殿の働きには確かに感服つかまつりました。実は遠巻きながら一言、二言話もしてござる」
政宗は「ほう」と驚いた様子を見せた。
「それはわしも知らなんだ。重長め、わしに隠しておったとは」
「と申しても、万一の時には娘と息子のことを頼むと頼んだまでで」
注:実際には夏の陣の最中に輿入れさせたらしい。
「今はどうなのだ?」
「特に考えてはござらぬ」
「重長には子がおらぬでな。貴殿の息女を迎えられるとあらば喜ぶであろう」
「それならば、そのようにいたしましょう」
幸村が答えて頭を下げる。元々二人は対等の立場ということで来ており、それだからこそ二人で別の場で話をしていたのであるが、この時点で幸村は半ば政宗を主のように扱っていた。
翌日5月12日、両名が話を通したこともあって和睦は正式に成立した。
同日、幸村は大坂方に真田忍を派遣し、忍から報告を受けた幸村の長男大介幸昌は姉を名古屋に送る。
5月25日、片倉重長と真田幸村の娘阿梅の婚礼が成立した。
それはあたかも真田幸村が伊達政宗の一陪臣になったかのようであった。
ああ、やっぱり幸村は夏の陣で戦死してこその幸村だった(笑)PR
話は少し遡る。
大坂城では5月7日夕方のうちに首実検を済ませると、直ちに次の方針を巡っての軍議が行われた。
その軍議の席に出ているのは、豊臣秀頼、淀の方母子、大野兄弟、真田幸村、毛利勝永、明石全登、長宗我部盛親である。徳川秀忠を討つのに大きな功績のあった前田利常は、そのまま根拠地・加賀へと戻る準備をしており、この軍議には参加していない。
まず大野治房が積極策を唱えた。
「この機に乗じて、一軍で一挙に大和方面から逃れる幕府軍を叩き、別軍で近江まで攻め寄せようではないか」
真田幸村が反対する。
「しかし、我が方も疲弊の極みに達してござる。大和方面にいた伊達隊を中心とした部隊は今日の戦にも参加しておらず、疲労もないであろうから、彼らと戦うのは得策ではござらぬ」
「なれど、せめて近江方面へと手を伸ばしておかねば牢人達に与える領土がなくなる」
大坂城に集まっていたのは大半が領土を持たない牢人である。勝利した以上は彼らに与える領土が必要となるが、今回の戦いはあくまでも篭城戦の勝利であるから、領土がない。特に関ヶ原で没落した元大名などの牢人を繋ぎとめておくためにはどうしてもどこかしらの領地を奪わなければならなかった。
「それは和睦によってどうにでもなるのではござらぬか?」
「和睦? しかし、徳川方が応じるとも思えんが」
「応じるでしょう」
毛利勝永が幸村の後を受ける。
「徳川の譜代達はもちろん主の仇討ちのことを考えているでしょうが、一方で、次のことも考えているでしょう」
「次?」
「大野殿、明石殿、前田殿が征夷大将軍を討ったことで、徳川方ではその次を巡る主導権争いが発生するものと思われます」
「…徳川の清洲会議、でござるな」
明石全登が続く。そこまで言われればもちろん大野達も理解する。
「退却する徳川軍を指導しているのは伊達陸奥守(政宗)と松平上総介(忠輝)です。伊達殿の野心は天下にあまねく知れ渡るところ、上総介殿を擁して、徳川方で大いに力を振るおうとすることは容易に想像できます。つまり、伊達殿は我々との戦いよりもまずは徳川内部を押さえることに力を注ぐでしょう」
「とすると、我々との再戦よりは、まずは適当な条件での和睦ということになるか」
「左様でございます。幸い、こちらには内府殿と将軍殿の首がございますし、その引き換え及び彼らが幕府内で権力を握りやすい二、三の条件でも入れてやれば近江くらいは譲ってくれるでしょう」
「ふうむ…」
「とはいえ、真田殿のように交渉一辺倒というのも面白くありません」
「む…?」
今度は幸村が興味深そうな視線を勝永に向けた。
「このまま北上して、京を切り取っておくのは悪くないでしょう。京の管理も色々な交渉材料にはなるでしょうからな」
「京でござるか? しかし、京都には上杉殿と直江山城守がおる」
「おりますが、あの二人が帝のおわす京で戦を行うとは思えませぬ。近江あたりに引き下がっての決戦を考えるでしょう」
「なるほど…」
上杉景勝の義理と筋目を重んじる姿勢もまた天下に知れ渡っている。
「ひとまず京まで攻め入り、その後和睦にあたるのがよろしかろうと思います」
「…秀頼公、いかがなさいますか?」
大野治房が秀頼に問いかける。問いかける、というよりは確認するだけという方が正しいだろう。場にいる者は全員、毛利勝永一人の力で勝利にこぎつけたに等しいことを理解しているし、その勝永が大野・真田の中間案の折衷案を唱えているのであるのだから、言を無碍にすることはできない。
「豊前の策を採用しよう。だが、条件はどのようにする?」
「まず、近江・大和・摂津の領有は認めてもらうべきでござろう」
「もう一つ」
明石全登がここで進み出る。
「我が主・秀家の流罪を解いていただきとうござる」
「おお、備前宰相殿か」
全登の言葉に秀頼が嬉しそうな顔をした。
秀頼と宇喜多秀家はもちろん血が繋がっているわけではない。だが、秀頼は父秀吉が秀家を生前から養子にしていて、もっとも評価していたという話を母や近臣からよく聞かされていた。それに徳川家が豊臣家から天下を盗もうとした関ヶ原の戦いで主導的な立場にいたのが秀家であることも知れ渡っている。
忘れていた豊臣の守護神のような存在。
秀頼はそんな存在として秀家のことを思い出していた。
もっとも、その秀家のことを秀頼に教えていた近臣、つまり大野兄弟はあまりいい顔をしていない。
「備前宰相殿は確かに自由の身になってしかるべきではあるが…」
「何かご不満でも?」
「…いや」
明らかに不満があるような様子ではあるが、大野兄弟はそれ以上のことは言わない。
「相手が受けるというのなら、それはそれでいいだろう」
「それで、誰が相手との折衝を務めましょう?」
徳川、というより伊達政宗との交渉役は議論の末、真田幸村と大野治長の二人が負うことになった。
毛利勝永は会議が終わると、大坂城内にある屋敷へと戻った。雑兵が勝永の姿を認めると恭しくお辞儀をし、勝永もそれに律儀に応じている。勝永が大坂で一、二の人望を集めているのはこのあたりの分け隔てのない姿勢によるところも大きい。
が、勝永は自分の部屋に入る前、見張りの兵にきつく命令をくだす。
「よいか。誰かわしを訪ねても不在であると答え、部屋には誰も入れるでないぞ」
そう言って、部屋に入ると、勝永は奥の掛け軸を外し、土壁の一部を叩いた。すると、壁の一部が開いて奥への通路が開く。
勝永はその中に入り、奥の部屋へと足を運んだ。僅かに天井からの月明かりが差しこむだけの暗い部屋に一人の老人が臥せっている。
「ご気分はいかがでござるか?」
「…悪くはない」
暗がりでよく見えないが、勝永は老人が笑ったように感じた。
「内府が死んだ。気分が悪いはずがない。礼を申すぞ。豊前殿」
「いえいえ」
「…その後の首尾は?」
「大方私の案が容れられた」
「それは重畳」
「ただ、一つ気になることがござってな。明石殿が備前宰相殿の復帰を強く望まれた」
「ほほう…」
「明石殿に呼応するがごとく、前田殿が寝返って、この話。いささか出来すぎてござらぬか?」
「されば豊前殿はこの後どのようになると考える?」
老人の言葉に勝永は言いよどむ。
「それは…分かりませぬな。備前宰相殿が関ヶ原の折に豊家のために奮闘されたのは確かで、秀頼公にとっても義兄といってもいい存在だ。だから、豊家のために悪しきとはならぬと思うが…」
勝永の迷うような言葉に老人は笑い声をあげる。
「ハハハ、分からぬでもない。宇喜多と前田が組んで秀頼公をないがしろにするということはありえないではないからな」
「……」
「だが、そうそう巧く事も運ぶまい。少なくとも毛利あたりは黙ってはおるまいよ。それに幕府は秀家を釈放するだろうが、伊達もぼんくらではないだろうから、おまけもつけてくれるだろう」
老人はくぐもった笑い声をあげる。
「つまり、色々ややこしいことになるだろうということだ」
翌日。
真田幸村、大野治長の二人は徳川方との交渉にあたるべく大坂城を出発した。
前後して毛利勝永、明石全登、長宗我部盛親らは2万の軍勢をつれて京へと向かった。京までの距離をかなりの早い速度で進軍を続け、翌日8日には高槻方面へと現れる。
その京を任されているのは上杉景勝の率いる米沢勢であった。
「兼続。いかにすべきか?」
景勝はいつもそうするように、直江兼続に意見を求める。
「相手は一昨日戦をしたばかりで、昨日は一日中進軍しているのですから、疲れが抜けているとも思えませぬ。数で劣るとはいえ、ここは正面からぶつかるのが良かろうかと…」
兼続の言葉に景勝は厳しい顔をした。
「しかし、帝のおわす京を戦場にすることはできん」
主人の拒絶を、しかし、兼続はむしろ予想していたかのように受ける。
「ならば、近江方面まで下がり、大津のあたりで迎え撃ちましょう」
「……」
景勝は無言のままだが、その表情から兼続は同意があったと読み取る。
「ただ、おそらく大坂方も大津までは来ないだろうとは思いますが…」
5月9日早朝、上杉軍3千は京を出発して、東へと向かっていった。
物見から報告を受けた毛利、明石勢はそのまま京へ向かい、上杉勢を追いかけることはなかった。
毛利勝永と話していた老人については、まあ、推測がつくかもしれませんけれど、ちょっとくらいはこういう史実関係なしな要素も盛り込んでみたいなー、というところです。
主な登場人物
伊達政宗:奥州の独眼竜。犬は3日で恩を感じるが、政宗は100年飼っても恩を感じない。
片倉重長:小十郎景綱の息子でやっぱり小十郎。父親同様に頼りになる副官で、喧嘩は父親より強い。
松平忠輝:家康の六男で政宗の義子。見た目が悪いので、父親には嫌われている。
真田幸村:赤備え。本名は信繁ということになってるが、今回は有名な幸村の方で。
毛利勝永:目立たないけど、何気に無茶苦茶強い。
前田利常:加賀前田の三代目。
明石全登:名前は「たけのり」らしいが、「ぜんとう」でいい気がする。キリシタン大名。
宇喜多秀家:石田三成ばかりが有名だが、関ヶ原で一番西軍のために頑張った人。
徳川家康・秀忠:単なる思い付きだけで戦死させられてしまう可哀相な二人。
豊臣秀頼:関白。真価を発揮するのはもう少し後?
淀の方:秀頼の母親。真価を発揮するのはもう少し後?
藤堂高虎:そのうち出番が増えるから、もうちょっと待ってよ。
長宗我部盛親:そのうち出番があるかもしれないから、もうちょっと待ってよ。
毛利輝元:そのうち出番はある、と思う。
福島正則:近いうちに出番はあるはず。
前田筑前守利常は22歳。かの前田利家の五男であり、加賀百万石の礎を築いた兄利長の養子となって前田宗家の主となった。堂々たる体躯に聡明な印象を与える容姿は、堅実ではあったがスケールに欠けた兄よりも大きなものを感じさせる。
そんな利常の下には、冬の陣の頃から豊臣方からの内応の使節が幾たびもなく訪れていた。当然、父前田利家と秀吉の親交があったからゆえのものであったが、利常はこれまではそのことごとくを拒絶していた。
それがここに来て、豊臣方への内応、徳川に対する裏切りを決意した。
それは宇喜多秀家の筆頭家老であった明石全登からの密書があったからである。
かつて備前宰相と称され、豊臣政権下において最も将来を嘱望されていた宇喜多前中納言秀家は関ヶ原の戦の後、八丈島への流刑になっていた。石田三成と並ぶ戦犯であるにも関わらず、東軍が秀家を処刑できなかったのは大老という身もあったし、前田、島津らの懸命な助命があるなど、大きな人望を得ていたからである。その秀家の正室は利家の娘である豪姫、つまり利常にとって秀家は義兄にあたる。
「徳川勢にもしものことあらば、宇喜多と前田で関西以西を制さん」
そのような内容の密書が直前になって明石全登から送られてきたのは、だから全く縁のないところではなかったのである。
利常は通常受け取った密書を即座に破棄したり、家康への臣従を示すために家康の下に送った。しかし、今回に関してはすぐに応じることはなかったが、その密書を自分の中に秘匿していたのである。
そして、徳川家康の死が決定的になった瞬間で利常は決心した。前田と宇喜多で天下を握る、と。
明石全登はどうか。
明石全登は主君の秀家ほど豊臣秀頼に対して忠義心を抱いていなかった。秀頼に従うことにしたのは単に家康がキリシタン弾圧の姿勢をはっきりさせていたため、そうでない秀頼が天下を取ってもらう方がマシと考えたまでである。
そして、5月8日の決戦の日、真田幸村、毛利勝永らが懸命に秀頼出馬を請うたにもかかわらず、秀頼は淀殿や腹心らの制止にあって、結局出撃を断念した。
この瞬間、明石全登は秀頼を完全に見限った。
一方で戦況を見ると真田・毛利、特に毛利勝永がすさまじい働きを見せており、あわや逆転の可能性もあるかもしれない。
(だが、その果実を秀頼に食わせていいのか?)
明石は毛利勝永、真田幸村の戦いに尊敬の念すら抱いていた。だが、勝ったとしてもその二人が戦後どのように遇されるかは分からない。自分の反発心と大坂の行く末を考えると、秀頼のために戦わなければならない自分が急に馬鹿らしく思えてきた。
それならば、可能性は限りなく低いが旧主秀家を呼び戻して、秀家による豊臣政権を築かせた方がいいのではないか。
そう思い、前田利常に密書を送ると、少し経ってから突撃を開始したのである。
もちろん、前田がどう動くか全登には全く読めなかった。前田が応じなければみすみす大軍の中に自滅的な突撃を敢行するだけですぐに戦場の露になるかもしれない。だが、それはそれでいいとも全登は思っていた。キリシタンが弾圧される姿を自分が見ることはないし、秀頼の天下にもならずに済む。
そして、全登の賭けは成功した。
前田勢はするすると戦場の後ろに下がっており、岡山口の徳川勢の後退を阻んでいたのである。それは戦下手な秀忠らを大混乱させるには十分過ぎた。
秀忠は自棄を起こして槍を持って突撃しようとした。一度目は「それは総大将のすることではない」といさめられたが、戦況が変わらない中でどう退却すればいいかも分からず、おまけに大和方面軍なども動かない。
結局、秀忠は今はこれまでと突撃し、そのまま戻らなくなった。戦死したのか、自害したのか、あるいは逃げたのかは分からないが、戻ってこない以上は征夷大将軍徳川秀忠は死んだと見るよりない。
とはいえ、死んだといっても相手に討ち取られたとあっては響きが悪いので、仕方なく自害ということで伝令が飛んだ。政宗が受けたのはその報告である。
岡山口の徳川軍は混乱この上ない状態に陥り、一部の死に怯えた部隊は味方を襲って、自分達は大坂方であると言いはじめる始末であった。
伊達政宗にもその様子が飲み込めてきた。
「いかがなさいます?」
片倉重長が尋ねる。
「退くしかなかろう。今ならば、豊臣方も完全な状態では追ってはくるまい。上総介殿(松平忠輝)にも伝えてくれ」
「承知しました」
伊達勢はほどなく撤退を開始し、それに応じて松平忠輝も退き始める。忠輝が退いたのを見ると、他の大和勢も後退を始めた。
正午前に始まった戦は酉の刻(午後6時)前には終了した。
大混乱に陥った東軍は壊滅状態のまま四散し、松平忠直の奮戦と真田・毛利勢が追撃を熱心に行わなかったことで辛うじて撤退に持ち込むことができたという惨状であった。唯一大和方面に陣取った部隊のみが整然と引き揚げていおり、その大和路の軍に対しても大坂方も追撃をかけることがなかった。彼らも疲弊の極みに達していたのである。
東軍は無数の将兵が討ち死にした。
何より、家康・秀忠の死は終結に向かっていた戦国乱世を再び元に戻しかねないほどの戦果であった。
大坂城では、豊臣秀頼や淀の方がまさかの勝利に半ば呆然としながらも、古今稀に見る活躍をした毛利勝永、真田幸村の二人をはじめ、諸将に褒美を授けている。
だが、そんな中で、明石全登だけはひたすら書状をしたためていた。
翌日。
大和から粛々と尾張方面へと向かう伊達政宗のところに、明石全登の密使が現れていた。
「ふむ…」
政宗は書状を見て、にやりと笑みを浮かべる。
「何と書いてあるのですか?」
「昨日の戦いの後に収容した大御所・将軍の首を返還するゆえ、前の関ヶ原で流刑になった宇喜多前中納言秀家の釈放手続をとってほしいとある」
「…それは伊達が決めることでは…」
重長が首を傾げて答える。流刑の釈放を決めるのは徳川家であり、あるいは朝廷であった。確かに伊達政宗は東軍でも随一の戦力を有してはいるが、勝手に流刑の秀家を釈放することなどできない。
「重長、分からぬか? これは上総介殿の名でしてほしいということだ」
「あっ…」
「大御所様と征夷大将軍様がお隠れになった。そうなると、当然次を誰か決めねばならない」
「戦後処理をきちんと済ませれば、上総介様が次の征夷大将軍になる可能性が高いというわけでございますな」
重長の問いに政宗は笑みを浮かべているだけであった。
「明石が前田と組んで暴れてくれれば、ふふふふ、面白くなりそうだ」
以前の「うっかり真田が家康を倒したら?」というのをノリだけで始めてみることにしました。
断言しておきますが、専門家ではないので正確性の保証は定かではありません。
事実の認識違いとかがあるかもしれませんが、そこのところはご了承くださいませ。
慶長20年、5月7日。大坂。
豊臣家と徳川家による最後の決戦の火蓋が切られてから、およそ5時間が過ぎようとしていた。
伊達政宗率いる部隊は、前日の道明寺での戦で被害を被っていたこともあり、この日は大和路方面についていた。傍らで腹心の片倉重長も戦況を様子見している。緒戦から大坂方が優勢で、芳しくないことは見て取れたが、兵力差では大きく勝ることもあり、戦況を見る表情には余裕があった。
そこに伝令が駆け込んでくる。
「と、殿!!」
伝令は政宗の姿を認めると、走り寄りながら大声で叫ぶ。
「大御所様、討ち死にっ!!」
一瞬の静寂。
政宗は緩慢とした動きで傍らにいる重長に視線を向けた。唖然とした様子で、締まりなく口を開いている。無論片倉小十郎重長はそのようなほうけた人間ではない。父景綱に勝るとも劣らない大器と称されている。その人間がこうなるところに、徳川家康戦死という衝撃の大きさを物語っていた。
「…真か?」
「真田左衛門佐の軍の猛攻を受けかねているうちに、毛利豊前守の突破を許し、進退ままならず…」
「左様か…」
政宗は高台に登り、遠く天王寺方面へと視線を向けた。
確かに真田の赤備えと、後藤基次・木村重成軍を加えた毛利勝永の部隊が縦横無尽に動き回っており、東軍の各部隊は散り散りになっている。伝令の言うことがあながち嘘であるとは思えなかった。
次いで政宗は岡山口の方に視線を向けた。
岡山口には現征夷大将軍徳川秀忠がいる。仮に家康が死んだとしても、秀忠が健在ならばそれほど大きな問題ではない。
しかし、政宗の視線にはそれとは違う期待が込められていた。
(もし、秀忠も死ねば…)
先ほどまで岡山口でも苦戦していたことを政宗は確認している。もし、家康に続いて、秀忠まで死ねば徳川家に大きな混乱が生じることは間違いない。
その状況は本能寺の変で織田信長、信忠が死んだ時と近い。その後織田は没落し、現在は信雄ら数人が小大名として生き残っているにすぎない。そして織田の天下は羽柴秀吉が取り、その後徳川家康が取ろうとしていた。
(俺には秀吉になる資格がある)
政宗の天下への野望は秀吉にも家康にも劣らない。そして、当時の秀吉よりも政宗は徳川家に食い込んでいた。家康の六男で、この戦にも従軍している松平忠輝は政宗にとっては義理の息子である。また、秀忠の死という条件を加えれば最年長でもある。
(うまく忠輝を使い、この戦の退却をしてのければ、後々有利になるかもしれない)
政宗はそう思っていたのであるが。
だが、程無く政宗の表情には落胆が見て取れるようになった。
徳川秀忠のいる岡山口の東軍は確かに押されてはいる。だが、崩れているという様相は呈しておらず、あくまで相手の意気に押されているという程度であった。
(…こちらの主軍は大野治房か。治房程度ではどうにもならんな…)
政宗は、一瞬だけ抱いた天下への野望を捨て去り、現実的に徳川の将として対する方策を考えようと、高台を降りようとした。
「む…?」
降りようとして、足を止める。
「いかがなさいました?」
片倉重長が下から尋ねる。
「いや、大したことではない…」
政宗は重長に答えて、そのまま下に降りる。
一瞬感じた違和感の正体は大坂方の遊軍として控えていた明石全登の部隊が岡山口方面に向かっていたことであった。
(明石は大野よりは戦上手だが、奴が加わっただけではどうにもならぬわ)
「殿、いかがなされますか?」
「大御所がみまかわれたという中でのんびりしているわけにもいくまい。岡山口の軍の支援をしつつ、引き上げさせるしかなかろう」
「分かり申した」
政宗の方針を、同じ大和路にいる各部隊にも伝える。
それぞれも一様に家康戦死の報に混乱していたが、この近辺の部隊の中で一番経験も地位もある伊達政宗が方針を示したということ、それはほぼこの方面の責任者である松平忠輝のものとも近いということから順調に動き出し、やや遅まきながらではあるが、岡山口方面に動き出そうとする。
「も、も、申し上げますっ!!」
そこに岡山口方面からの伝令が駆け込んできた。
「将軍様、ご自害!」
「何だと!?」
政宗は今度は驚きを露わに伝令に近づく。
「馬鹿を申すな! わしは先ほどまで岡山口の方を見ておったが、明石が加わったところでそのようなこと起こるはずもない!」
政宗の怒りを受けた伝令はいい迷惑ではあるが、平伏して反論する。
「前田筑前守が、寝返ったのでございます!」
「前田が!? ええい、もうよい。わしの目で確認する」
政宗は再度高台に登り、岡山口の方を確認し、目を見開いた。
ほんの少し前まで整然としていた東軍は、前後を大坂勢に囲まれ、次々と皮を剥くように削られている。
前方、つまり城の方から攻め寄せているのは大野治房の部隊と、明石全登の部隊であった。そして、後方にいる部隊は…
(確かに前田勢だ…)
前田利常の梅鉢紋の軍勢が、岡山口の徳川方の後退を妨げている。積極的に攻撃は仕掛けていないが、味方の後退の妨害をしている以上は寝返りに等しい。
(だが、前田が寝返ったとしても、逃げることならできようものを)
全包囲されているわけでもないし、数自体は岡山口の部隊の方が圧倒的に多い。天王寺口の東軍は撃破された部隊の兵が、そのまま後続の徳川方部隊に逃げ込んで大混乱を起こし、収拾のつかない状況になっていた。岡山口はそこまでは至らない。であるから、粘り強く采配を執れば反撃も不可能ではなかったはずであり、そんな状況で諦めて自害というのは政宗にはにわかには信じられなかった。
(とはいえ、秀忠だからな)
家康と比べると遥かに采配の劣る秀忠である。家康の死の報告も受けていたであろうし、瞬間的に絶望したのだろうと政宗は納得した。
(結果的に、これで伊達にとっては面白いことになる)
政宗は一旦諦めた野心を再び呼び起こし、思わず頬をゆるめた。
(しかし、前田は何故に寝返った…?)
それは政宗にとっては腑に落ちないことであった。
前田利常は22歳と若いが、関ヶ原で寝返った小早川秀秋に比べると遥かに聡明で知られているし、政宗も評価していた。
それほどの人物であるから、単に目先の状況で利益に走るとも考えられない。仮にこの戦いが大坂方の勝利に終わっても、それで西軍が勝てるという状況でもない。前田利常が寝返ったとなれば、新しい将軍が誰になるとしても前田家は目の仇にされることになる。それだけの重荷を背負うだけの利益が前田にあるのか。
「明石殿との間で示し合わせていたのかもしれませんな」
高台から降りてきた政宗に対して重長が口を開く。
「明石と…?」
「豊臣が挽回できたとしても、秀頼公と淀殿に心から従う者はたかが知れております。そうなるとより人望があり、かつ関白様恩顧の者に期待が集まります」
「なるほど。備前宰相を八丈島から連れ戻し、前田と宇喜多で豊臣を支配しようということか」
ということで、以前の分析エントリでは宇喜多のウの字も出ませんでしたが、秀家が家康が死んだ展開では面白いのではないかという推測の下に進めてみることにしました(笑)