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2011年は勝てるのだろうか…?
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本能寺の変については二年くらい前のgooの時代に一度書いたことがありました。当時からどうもこの事件については近年信長と光秀の個性の齟齬とかそういうのばかりを気にしていすぎる気がして、何かもうちょっとあっさり風味だったんじゃないのかなという気がしていたのですが、それが中々まとまらないわけで考えつつも放置状態。考えるといっても文献にあたって考えるほど細かい性格の持ち主でもないので、世間的には突飛な説の範疇を抜け出ないわけですけれど…
で、少しばかりまとまったので、とりあえず形にだけして次回以降の足場としたいと思います。
個人的には以前書いた時から一貫して単独説以外にありえない、という考え方です。
というのも、光秀のクーデターは信長だけ倒せばいい、というものではなかったわけで織田の当主は1576年の時点から信忠だったわけですから、信忠も倒さなければ信忠の下に全織田軍が集まってきて「謀反人光秀を討ち取れ」となるわけで光秀個人にとっては何の意味も成しません。しかるに朝廷以外の面々に果たして信長と信忠を同時に倒すことのできるシナリオを現実的に描けるのか、ということでそれは現実的に不可能だろうと思いますので大半の陰謀説はこれで除去できそう。信長を消す動機のある人間は多かったでしょうけれど、成算がなければ実行犯の光秀が自身が捨て駒として使われることを納得するはずがないということで、そこまでの成算を与えられるはずがないという意味で。
で、朝廷に関しては三職推任等の問題があったので、二人を集めることができ(実際集まったからこそ本能寺の変が起きた)たという点では当事者になりえそうですが、いかんせん正親町天皇の息子であった誠仁親王が信忠と一緒に行動していて危うく共倒れになりそうだったというあたりが説得力を欠きます。
で、最初に書いた二年くらい前の時点では光秀が本能寺を起こした原因は信長だけでなくて信忠にもあったのではないかという風に問題提起してみて、別に何の反応もないわけですが(笑)、信忠と光秀の相性は別にして単純に信長の個性とかに捉われすぎるのもアレな気もしないではありません。
例えば、織豊政権といわれた信長の後継者であるところの豊臣政権、明遠征などは信長の構想でそれを秀吉が引き継いだというのが有力なようで、そういうのがある以上政権のいたるところに信長のイメージなどが反映されている可能性はあります。
この豊臣政権はどうなったかというと徳川家康に滅ぼされたわけで徳川家康は豊臣政権下では一番有力な実力者でありました。信長政権における明智光秀は機内を治めていた実力者でしたから、結局織豊政権の終焉は同じ状況で生じたということがいえるわけです。違いは家康はそのまま天下を掌握しましたが、光秀はそれができなかったということで。
では、家康はどういう経緯で豊臣政権を倒したかを考えてみると、別に豊臣秀吉に恨みがあったとは一言も言っていません。このあたりは1581年に信長の恩義を感じる書状を書いていたという光秀と似ているといえなくもない。
ま、家康の場合は秀吉が死んでチャンス到来となったわけですが、対立の原因を作ったのは石田三成ら五奉行で秀吉恩顧の能吏達とされています。で、まあ、これは家康の天下でも言えるわけで、例えば有力武将の中に本多正信や正純親子と対立したという面々は絶えませんし、恩顧の武将だった本多忠勝とか榊原康政は多少敬遠されたようなところがあります。家康を倒す奴はいませんでしたけれど。
ある程度統治体制が進むと官僚制の方が都合がいいのでしょうが、官僚制の下では体張ってきた部将達は今までと同じようには働く必要もないということになる。場合によってはむしろ邪魔なことになるともいえなくもない。譜代の家臣とかならそれでも我慢するしかないのかもしれませんが、徳川家康は譜代でもないし特別豊臣家に尽くす義務でも性格でもなかったので権益削減は嫌+取って替わろうとしたとまあそういうことだろうと思います。
じゃ、織田と光秀の関係はどうか。
1582年当時、武田が滅んだことで九州の大友は恭順の意を示していましたし、東北の伊達や関東の北条あたりもほぼ恭順状態だったという話ですから、毛利・上杉・長宗我部あたりがいるにはいるにしても、正直天下統一は完成しつつあった。
となると、織田政権内でも官僚制が進んでいたということはあったでしょう。天下統一がなった暁には光秀や秀吉あたりは官僚と対立して苦戦した可能性が高い。
で、官僚制となると徳川政権下ではこれを進めたのが二代目の秀忠。
家康は海千山千の男なので色々な面々でも御することができたでしょうけれど、家康に従っていた面々が二代目についても大人しく従うかというとその保障はない。となると、きっちりとした枠組みを作って徳川政権を安泰させようということになる。
同じ図式を織田にあてはめると二代目の信忠以降、より織田政権を強固にということになるわけで、信忠の下に長期的な織田政権の礎となるものがあった可能性は否定できない。
個性に注目すべきでないと言ったものの、信長の性格からするとシステマティックなことは嫌いそうなのでむしろ後のことは信忠に任せて、自身は心置きなく明遠征などをしようとしていたと考えるのはむしろ合いそう。なら、三職推任について「俺は信長だ。俺は好き勝手やるから官位などいらん。だけど次以降のことはあるから信忠には官位を与えてほしいので、その点よく考慮するように」というあたりが妥当な気がします。
結局のところ、信長個人が全部掌握していた政権からは少しずつ官僚政権になりつつあった可能性が高いということで、そうであるなら、信長と対立していようがいまいが光秀としては将来的にはどんどんジリ貧になっていくことが予想される。
そういう状況であれば、家康と同じように隙あらば俺様が一番上に立とうじゃないか、と考えたとしても別に不思議ではない。
ま、そこにたまたま好機到来となったので…というのが一般的な見解ですけれど、このあたりも本当に偶々というだけで片付けていいのかというのはあります。
京での日程を知っていたのなら、光秀本人の方から「毛利攻めの後詰に行きとうございます」なんて言っていた可能性もあるんじゃないですかね。
陰謀説も最近ではイエズス会とかもあるみたいで、そのあたり見ていると楽しいんですけれどね。ただ、実際どうかというと…
乱世で強いのが治世の能臣である可能性は低いですから、どうしてもいらないとなるんでしょうね。
家康というと本人に忍耐の人ってイメージがありますが、その部下にもかなり忍従とか強いているな~という気がします。
無題 - yoshi
ふむふむ。
わたしも陰謀説を「楽しむ」クチですが、
ほんとは単に天下が欲しかっただけかな、と思ってます。
そして、なんと、それがうまくいってしまった!(途中までは)
という感じかなー、と(苦笑)
武闘派たちが戦後処理、新体制確立の中で
徐々に排除されていくのはどの時代、どの国でも同じですね。
家康も本多親子が悪役にされがちですが、
なんのことはない、その決裁をしているのは
最終的に家康本人であるわけで。
家康様は変わられてしまった、と
大久保彦左衛門は嘆くのでしょうが、
もともとそうだったんだろうなー、と思ったりします。