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- 2008.03.18 本能寺の変・あっさり風味
- 2008.02.28 第九惑星が存在
- 2008.02.27 源九郎義経を考える
- 2008.02.25 三大なんとか
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以前、3大何とかというエントリで、3は時代・国を通じて選抜するのにいい数字なのかなと書きました。
ただ、国内(日本に限らない)とかドメスティックなものならそれ以外の数字にまつわるのも結構あるみたいで、思いついたのから列挙してみました。
2:両川
意外と2が苦しい。2人がドーンと並立していると片方が倒れると残った方の専横になってそっちのイメージが強くなるということですかね。
呼称があるのは毛利両川で吉川元春と小早川隆景。
4:四天王
4人いればとりあえず四天王。多過ぎて取り上げられません。
ただ、四天王は仏教的なものなので欧米だと当然そんな発想自体がなく、だからクインテットとかファンタスティック・フォーとか別の呼び名になりがち。ただ、方角が4つあるので4自体は海外でも割とメジャーな印象はあるのだそうで。
ちなみに去年の夏頃にはアンリとロナウヂーニョとエトーとメッシーの四人がファンタスティック・フォーと呼ばれていたりしていたわけですが、今の様子を見ていると遠い昔のことのようです(笑)
5:五大老、五奉行、五虎将、戦隊
何か中途半端な印象を受けるのが5人。多数決で決める分には奇数がいいし、3よりは多数決っぽい感もあるのですが、5が特別何か意図するものでないというのが痛いのでしょうか。
そして忘れてならないのが戦隊ものなどの五人組。まあ、戦隊ものはほとんど見たことないんですけれど。
6:六歌仙
固有名称がある中で思いついたのはこれだけでした。
7:七大天使、七本槍
天使については四大天使の方が有名でしょうけれど、最後の審判では7人出てくるらしいので一応こちらで。
ミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエル、ラジエル、レミエル、サリエルの7人です。
…と断定すれば、まず間違いなくバッシングが飛んできます(笑) 四人以外については異説紛々というところのよう。
七本槍というと戦国時代に個々の戦いで頑張った七人を褒め称えるものとして定番だったようですが、有名なのは羽柴秀吉旗下の七本槍。
福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元
ですな。まあ、このあたりまでくると調べることなくパッと全員出てくる人はあまりいなさそうです。
10:十勇士
真田とか尼子とかの十勇士。真田はともかく、尼子十勇士が3人出てくる人は既に相当なマニアと言えるでしょうけれど。
12:12使徒
定番。でも、これまたクリスチャンでなければ12人は出てこない可能性が。
黄道12宮の影響か、12も意外と好かれているようです。
24:武田二十四将
28:徳川二十八将
47:赤穂四十七士
108:百八星(水滸伝)
まあ、広く使えるのは三大何とかと四天王ってことになりますかね。フランスだと三銃士、四銃士ということになりますけど。とりあえずパッと思いついたものだけ書いてみたので有名どころでも平然と漏れていそうですけれど、8とか9で何かあったら教えてください。
ただしベストナインとベストイレブンとベストフィフティーは却下ということで(笑)PR
本能寺の変については二年くらい前のgooの時代に一度書いたことがありました。当時からどうもこの事件については近年信長と光秀の個性の齟齬とかそういうのばかりを気にしていすぎる気がして、何かもうちょっとあっさり風味だったんじゃないのかなという気がしていたのですが、それが中々まとまらないわけで考えつつも放置状態。考えるといっても文献にあたって考えるほど細かい性格の持ち主でもないので、世間的には突飛な説の範疇を抜け出ないわけですけれど…
で、少しばかりまとまったので、とりあえず形にだけして次回以降の足場としたいと思います。
個人的には以前書いた時から一貫して単独説以外にありえない、という考え方です。
というのも、光秀のクーデターは信長だけ倒せばいい、というものではなかったわけで織田の当主は1576年の時点から信忠だったわけですから、信忠も倒さなければ信忠の下に全織田軍が集まってきて「謀反人光秀を討ち取れ」となるわけで光秀個人にとっては何の意味も成しません。しかるに朝廷以外の面々に果たして信長と信忠を同時に倒すことのできるシナリオを現実的に描けるのか、ということでそれは現実的に不可能だろうと思いますので大半の陰謀説はこれで除去できそう。信長を消す動機のある人間は多かったでしょうけれど、成算がなければ実行犯の光秀が自身が捨て駒として使われることを納得するはずがないということで、そこまでの成算を与えられるはずがないという意味で。
で、朝廷に関しては三職推任等の問題があったので、二人を集めることができ(実際集まったからこそ本能寺の変が起きた)たという点では当事者になりえそうですが、いかんせん正親町天皇の息子であった誠仁親王が信忠と一緒に行動していて危うく共倒れになりそうだったというあたりが説得力を欠きます。
で、最初に書いた二年くらい前の時点では光秀が本能寺を起こした原因は信長だけでなくて信忠にもあったのではないかという風に問題提起してみて、別に何の反応もないわけですが(笑)、信忠と光秀の相性は別にして単純に信長の個性とかに捉われすぎるのもアレな気もしないではありません。
例えば、織豊政権といわれた信長の後継者であるところの豊臣政権、明遠征などは信長の構想でそれを秀吉が引き継いだというのが有力なようで、そういうのがある以上政権のいたるところに信長のイメージなどが反映されている可能性はあります。
この豊臣政権はどうなったかというと徳川家康に滅ぼされたわけで徳川家康は豊臣政権下では一番有力な実力者でありました。信長政権における明智光秀は機内を治めていた実力者でしたから、結局織豊政権の終焉は同じ状況で生じたということがいえるわけです。違いは家康はそのまま天下を掌握しましたが、光秀はそれができなかったということで。
では、家康はどういう経緯で豊臣政権を倒したかを考えてみると、別に豊臣秀吉に恨みがあったとは一言も言っていません。このあたりは1581年に信長の恩義を感じる書状を書いていたという光秀と似ているといえなくもない。
ま、家康の場合は秀吉が死んでチャンス到来となったわけですが、対立の原因を作ったのは石田三成ら五奉行で秀吉恩顧の能吏達とされています。で、まあ、これは家康の天下でも言えるわけで、例えば有力武将の中に本多正信や正純親子と対立したという面々は絶えませんし、恩顧の武将だった本多忠勝とか榊原康政は多少敬遠されたようなところがあります。家康を倒す奴はいませんでしたけれど。
ある程度統治体制が進むと官僚制の方が都合がいいのでしょうが、官僚制の下では体張ってきた部将達は今までと同じようには働く必要もないということになる。場合によってはむしろ邪魔なことになるともいえなくもない。譜代の家臣とかならそれでも我慢するしかないのかもしれませんが、徳川家康は譜代でもないし特別豊臣家に尽くす義務でも性格でもなかったので権益削減は嫌+取って替わろうとしたとまあそういうことだろうと思います。
じゃ、織田と光秀の関係はどうか。
1582年当時、武田が滅んだことで九州の大友は恭順の意を示していましたし、東北の伊達や関東の北条あたりもほぼ恭順状態だったという話ですから、毛利・上杉・長宗我部あたりがいるにはいるにしても、正直天下統一は完成しつつあった。
となると、織田政権内でも官僚制が進んでいたということはあったでしょう。天下統一がなった暁には光秀や秀吉あたりは官僚と対立して苦戦した可能性が高い。
で、官僚制となると徳川政権下ではこれを進めたのが二代目の秀忠。
家康は海千山千の男なので色々な面々でも御することができたでしょうけれど、家康に従っていた面々が二代目についても大人しく従うかというとその保障はない。となると、きっちりとした枠組みを作って徳川政権を安泰させようということになる。
同じ図式を織田にあてはめると二代目の信忠以降、より織田政権を強固にということになるわけで、信忠の下に長期的な織田政権の礎となるものがあった可能性は否定できない。
個性に注目すべきでないと言ったものの、信長の性格からするとシステマティックなことは嫌いそうなのでむしろ後のことは信忠に任せて、自身は心置きなく明遠征などをしようとしていたと考えるのはむしろ合いそう。なら、三職推任について「俺は信長だ。俺は好き勝手やるから官位などいらん。だけど次以降のことはあるから信忠には官位を与えてほしいので、その点よく考慮するように」というあたりが妥当な気がします。
結局のところ、信長個人が全部掌握していた政権からは少しずつ官僚政権になりつつあった可能性が高いということで、そうであるなら、信長と対立していようがいまいが光秀としては将来的にはどんどんジリ貧になっていくことが予想される。
そういう状況であれば、家康と同じように隙あらば俺様が一番上に立とうじゃないか、と考えたとしても別に不思議ではない。
ま、そこにたまたま好機到来となったので…というのが一般的な見解ですけれど、このあたりも本当に偶々というだけで片付けていいのかというのはあります。
京での日程を知っていたのなら、光秀本人の方から「毛利攻めの後詰に行きとうございます」なんて言っていた可能性もあるんじゃないですかね。
この間冥王星が惑星から陥落してしまったばかりの我らが太陽系ですが、新しい仲間は他にもいるらしいということが研究結果で明らかになったそうで。
海王星の外側に存在するそうで楕円軌道らしいということは冥王星と同じということになるのでしょうけれど、火星や水星よりも重いという理論統計が出ているらしいですから、その意味ではきちんと惑星として認められる公算が高い。
となると、見つかったときどういう名前になるかというのが気になるわけですが、巷間親しまれている冥王星を新たに名乗るなんてこともあったりして…
新冥王星とか。
今回の理論上存在するとされる惑星については、太陽の周りの一周期は大体1000年だそうで太陽にもっとも近づいた時に14.8等星くらいになるということで個人が見つけるのは中々難しそうです。
ただ、以前四谷の図書館にあるどでかい辞書を見た限りではフォーマルハウトの星系には1兆年離れた連星が存在するという話もありましたので、遠くまで探せばもっと大きな天体が太陽の影響を受けていたりするのかも。
しかし、よくよく考えてみると宇宙もの戦争とか探検とかの話などは多いですけれど、場所を選ばないと例えばデネヴ・キュグとかリゲルの近くなんかにしてしまうとヤツラは太陽の数百万倍とかのエネルギーをもっていますから下手するとすぐに宇宙船が溶けてしまうんじゃないかということになりかねませんし、スピカなんかは連星群が互いに猛烈な放射線を出しながら恒星活動をしているということでこれまた危険極まりありません。
大抵の話では地球も一応出てくるので、地球の近くということになるのでしょうから、太陽とほぼ同じくらいのレベルの天体であるリギル・ケンタウルスとかプロキオン近くの星系ということになるのかもしれませんが、どのあたりの位置にどうあるのす、天文学的な根拠とかもあったらちょっとカッコいいのかもという気はします。
本当は昨日Yahoo!のトップページに本能寺の変についてのことが出ていたので、本能寺のことを書こうかなと思っていたのですが、頭の中で収拾がつかなくなったので、代わりに超久々に義経のことでも書こうかなと思います。
義経といえば世間一般的には悲劇のヒーローという認識で定着しているわけですが、実は個人的には結構疑問に思っている部分があったりします。というより、歴史雑学の権威みたいな人も、かなりこの人については固まった固定観念を基に話をしているきらいがあるのですが、それって実際のところ逆に変なんじゃないのかっていう気がするところがあるわけなんですね。
その最たるものが前半生だろうと思うわけですが…
義経は平治の乱で常盤御前が清盛に降伏して後家みたいになったこと、加えて義経-当時は牛若丸だったわけですが-のみ乳児だったということでひとまず清盛のところで育てられたそうです。で、その後常盤御前が一条長成に与えられたときにはそこについていって、またそこで育てられたとなっております。このあたりも推測の仕様はいくらでもありますが、とりあえず良しとしておきましょう。
その後鞍馬寺で己が出自を知り、打倒平家の情熱に燃えて色々思案したあげく平泉に逃げた、というのが一般的な牛若丸のイメージです。その途中なのか、あるいは鞍馬寺にいるころに弁慶と出会ったという話になっているわけですが。
で、この平家打倒のために平泉に向かったというのが、よくよく考えると本当なのか、という気がするわけです。
というのも、1180年に兄貴で嫡子の頼朝が兵をあげたので義経もそこに馳せ参じるわけですが、この時義経が連れていった兵卒というのはものの数にもならない程度というのが通説になっております。しかも、その大半は藤原秀衡に与えられたものという話。
義経が平泉に向かったのが幾つくらいだったか正確な資料はないものの、18くらいになれば完全に坊さんにさせられていた可能性があるので、おそらく16か17くらいと見るのがいいでしょう。で、1180年の時義経は数えなら22歳ということになりますから、最低6年くらいは平泉にいることになる。
平家打倒のために平泉に行ったのなら、6年後にいざ立ち上がったとき部下が数えるほどしかいないというのはどういうこと、という疑問が当然のごとく湧きあがってくるわけです。
義経はよっぽど人望がなかったのでしょうか(後年の頼朝との戦いを見ているとありえない話ではないが)。それとも自分は無敵だから自分だけ鍛え上げれば大丈夫という呂奉先みたいな思考の持ち主だったのか。
まあ、常識的に考えれば、そんなことはないということになり、おそらく義経は別の目的で平泉にいたのだろうということになります。では別の目的は何かということになるわけですが、まずありうるのは京で政変が起こった際に出自からして危害を加えられる恐れがあるので遠い平泉に逃げてしまおうという考え。
義経は京育ちの伊達男なので、兄貴の頼朝みたいに伊豆の田舎に行くのは嫌だろうということで京都ほどではないにしても文化の中心地になっている平泉に行きたいと考えるのは無理のない話です(+養親の一条長成が奥州藤原氏と縁戚関係にあったらしいことも作用していそう)。
ただ、この点もちょっと疑問があるわけで義経が自己の意思で勝手に行動をしていた場合、一応名目上彼の養親になっていた一条長成と母親の常盤御前がどうなるかという話になります。元々の出自からして危険分子であることは間違いないでしょうから、勝手に逃げたとなると当然二人には何らかの問責などあってしかるべきでしょうが、そんなものがあったという話はありません。
じゃあどうなるかというと結局のところ、平家の承諾を得て平泉に行ったと考えるのが一番自然でありましょう。もっと言うならむしろ平家と藤原氏の側で合意がなされ、それに従って出て行ったのではないかというのが一番ありうるのではないかという気がしています。
養親が奥州藤原氏と関係があり、その奥州藤原氏は八幡太郎義家のおかげで繁栄することができたので義家の末裔が来るのは藤原氏側にとっても悪くない話です。平家にとってもずっと手元にいた義経なら特別害もなかろうということで友好的に送り出されたと。
それなら義経が特別平家打倒の準備をしていなかったことも分かりますし、また、秀衡が部下を与えて送り出したのも理解できる。1180年当時は形のうえでは藤原氏は平家との同盟関係を継続させていたわけですから、匿い続けるのは得策ではないし、といって縛り上げて提出するのも源氏が勝った場合には困る。結局、ある程度の数の兵を与えて送り出せば平家側には「逃げました」と弁明ができるし、源氏側には「手助けしてやったじゃないか」と言えるわけで。
ということで、管理人は義経に平家打倒の意識はあまりなかったのではないかと考えているわけなのですが、いざ出されてしまったからには向かわざるを得ないということで兄頼朝の下へ急ぐわけです。しかし、これが非常にタイミングが悪いことになってしまったようです。
というのも、義経が頼朝と合流したのは富士川の戦いの翌日というのが定番となっています。富士川の戦いというのは平維盛が10万の軍勢を率いて討伐に向かってきたのを富士川付近で撃破した(というより士気の低かった平家側が自壊したようですが)わけですが、結果的に勝ちはしたものの、相手が10万というのはやはり相当肝を据えてかからなければならない話であります。
その苦しい状況を供にしてくれた側近らに対し、頼朝は「ああ、おまえ達は何と信用の置ける奴だ」と深い信用を抱いたことは想像に難くありません。
翻ってその翌日にやってきた弟はどうでしょうか。
普通は「こいつ、近くで様子を見ていたんじゃないか」と思うものでしょう。そう思わなかったにしても生死を供にしたわけでもないし、一度も見たことがないしということであまり信用しなかっただろうことは想像に難くありません。たとえものの数にならなくても2日早く合流していれば(まぁ、それはそれで疑われた可能性もあるけど)義経も深い信任を得ることができたかもしれません。タイミングの悪さ極まりないといえようものです。
後年、梶原景時が義経を讒言した際に、頼朝は景時の言を容れているわけですが、一説によると石橋山で敗北し逃げる頼朝を捕捉しながら「お助け奉る」と言った景時と、宝くじが当たった翌日にやってきた弟とどちらが頼朝にとって信用に値しようか、言うまでもありません。水は血より濃くなることもある、とまあそういうことでしょう。義経だけでなく、範頼あたりについてもあてはまることだろうと思います。
続きについてはまた今度。
世界の雑学の中で「世界三大美人」というものがあります。クレオパトラと楊貴妃と小野小町ということですが、別に世界共通認識というものでもなく(日本人以外で小野小町を知ってればかなりすごいと思う)、あくまで日本の認定のよう。
それぞれの国の代表する美人とかが入って別の形で存在していたりはするのかもしれませんが。
もう一つ、最近になって知ったのですが、海軍関係で「世界三大提督」というのがあるのだそうでホーレイショ・ネルソンと東郷平八郎、ジョン・ポール・ジョーンズの3人がそうなのだそうです。ジョン・ポール・ジョーンズといってもレッドツェッペリンのメンバーとは関係はありません、おそらく(笑)
これまた、他の国でどうなのかというのは良く分かりませんが、英国ではネルソンを東郷、ジョーンズと一緒くたにするようなことはなくて、それぞれ別々に評価しているよう。
だからまあ三大~とかってのは日本特有のフレーズなのかなという気はしますが、そうなると東郷は小野小町よりは世界の人達を納得させられるでしょうから問題ないとしましても、何で最後の一人にジョン・ポール・ジョーンズっていうまた地味な人(私生活は色々派手だったらしいが)が入ってくるんだろうという別の疑問とかも生まれてくるわけで。個人的にはドレイクとかマゼランとか鄭和とかハイレッディンあたりの方が有名な気はするんですけれど。
提督というのが近代の階級持ちを指す言葉として定義され、さりとてさすがに太平洋戦争のスプルーアンスとか入れるのは抵抗があるとかそういうことなんでしょうか。
他にも三大なんとかは色々ありそうですけれど、3という数字でそろえると座りがいいということなんでしょうか。