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2011年は勝てるのだろうか…?
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話の大筋:大坂・夏の陣で豊臣方牢人衆が徳川家康を討ち取ってしまった。さあどうなっちゃうの? ということで。
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紀伊国。
この地を治める浅野長晟は、東上する伊達や東軍本隊を他所にさっさと居城和歌山に引き揚げていた。
と言っても、徳川家を見限ったとかそういう話ではない。浅野氏が37万5000石もの大身になれたのは徳川家との関係が良かったからに他ならず、その徳川家と離れて飛躍を遂げるほどの先見性を長晟が有していたわけでもない。
注:尚、史実では長晟はこの後安芸42万石と更に加増されている。
6月18日。
「殿、殿!」
浅野長重が天守の兄長晟の元に飛び込む。
「根来、雑賀の者共が一揆を起こしました!」
弟の報告に長晟は渋い顔をした。
彼が早々に紀伊に引き揚げたのは一重に在地国人の動向が気になったからである。
元来、この地には雑賀衆とも根来衆とも呼ばれる国人傭兵集団が存在していた。鉄砲を武器に各地を転戦し、特に石山合戦では本願寺側に立ち、織田信長を苦しめている。その後、豊臣秀吉の手も焼かせていたが、最終的には豊臣秀吉が紀伊に攻め入り、傭兵集団としての雑賀衆は壊滅した。
その後も刀狩や検地、あるいは身分を落とされるなど紀伊の地侍の受難の時期は続いたが、完全に反抗の意欲を失ったわけではない。大坂の陣が始まると、一部は徳川家の中央集権に反するべく大坂城に入り、別の一部は紀伊の独立を目指して一揆の準備をしていた。
そうした動き自体はもちろん長晟も把握していたが、それでも限定的な蜂起であればどうにかなると考え、出陣していたのである。
しかし今やその見込みは大きく崩れていた。東軍は壊滅し、紀伊は敵地に孤立するような形で存在している。支援のない中で、敗戦によって士気も下がっている。それで国人一揆に対抗できるか。
「どの程度の兵力が出せる?」
「…半分ほどかと…」
「半分か」
長晟は呻くように言う。もちろん、彼自身それが妥当な線であることは分かっていた。一揆は素早く鎮圧したいが、兵力を多く投入してしまえば和歌山城近郊で一揆が起きた場合に城が取られてしまう可能性がある。
「半分では一度に壊滅させることは難しい…どちらから鎮圧したものか」
「……」
弟の兄を見る目は不安そうであった。
実際、長晟自身も不安であった。雑賀衆の強さというのは伝説的になっている。今の雑賀の国人達が当時ほど鉄砲を有しているとは思わないし、戦乱が絶えて久しいから弱体化もしているはずである。
しかし、それは浅野勢にしてもあまり偉そうなことはいえない。道明寺の戦いなどでそれなりに活躍したとはいえ、あくまで勝てる戦いに勝った程度であり、自分達の兵が百戦錬磨であるという自信はなかった。もっと言えば、そもそも自分がきちんとした采配を振るえるのかという自信もない。
「…今の状況では徳川の援軍も期待できぬしなぁ」
思わず弱音が洩れた。
翌日には弱音を吐く元気もなくなるような事態になっていた。
「兄上、早馬が来て鷺ノ森でも不穏な動きがあるとか」
「何だと!?」
「それだけではなく、中郷、南郷でも…」
「な…」
長晟は思わずよろめいた。
「全土で国人共が動き出したというのか…」
「このままでは…」
「何ということだ…」
長晟は壁によりかかり、溜息をつく。
「兄上…」
長重が声をかける。日頃は兄を「殿」と言う彼であるが、そんな余裕もなくなっているのであろう。
「何だ?」
そんな弟を長晟も特別非難はしない。
「おかしゅうはござらぬか?」
「おかしい?」
「はい。雑賀の傭兵衆は元々まとまって動くことなどない存在だったはずです。ですが…」
「…この一揆はまとまっているし、統率が取れている…といいたいのか?」
「はい」
「大坂方が動いているということであろうか?」
「しかし、大坂方にそのようなことができるのであれば、そもそももっと早くにしていたはずではないかとも思いますし…」
「…考えていても詮無きことだ。とにかく、どうにかせねば」
「いかがしましょう?」
「徳川宗家に頼んでも無駄であろう。現時点では阿波の蜂須賀殿に支援を求めるしかあるまい」
同じく徳川家寄りで海を隔ててすぐの徳島からなら援軍が期待できる。
長晟は直ちに書状をしたため、阿波の蜂須賀家に急使を送った。
三日後、その急使が戻ってくる。携えていた書状を見た長晟は大きく溜息をついた。
「兄上…?」
不安そうな弟に対して、長晟は書状を投げ渡す。そそくさと読み始めた長重もまた、しばらくすると溜息をついた。
そこには、現在の蜂須賀家も豊臣の圧力を受けている状況で如何とも兵を動かせないことがしたためてあり、支援は出せないとの結論であった。そのうえで、落ち延びてくる分には喜んで迎え入れるという文言も記載されてあった。
「…兄上」
「蜂須賀殿にも立場がある。恨むわけにもいくまい」
「それで、いかがなさいます?」
「いかがなさるというが、おまえは何かできることがあるのか?」
「…蜂須賀殿の好意に甘えるしか、ありませぬか」
弟の言葉に長晟も力なく頷く。
6月下旬、浅野兄弟は主だった者を連れて和歌山を発ち、阿波の蜂須賀家へと落ち延びた。
翌月には、雑賀の一揆が紀伊全土で巻き起こり、主のいない紀伊を事実上支配下に置くことになったのである。
話の大筋:大坂・夏の陣で豊臣方牢人衆が徳川家康を討ち取ってしまった。さあどうなっちゃうの? ということで。
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信之が話し続ける。
「俺は父上やおまえほどの軍略の才能はない。ただ、才能が無いからこそ余計な前提を考えない。それがゆえに大過なくここまで来たのであって、普通だからこそ自然に生きられる部分もある」
「それはそうかもしれませんが…」
幸村は問い返す。
「さりとて、先の展望がまったくないようでは信念ある行動はできないのではありますまいか? 無論、信念なき生き様も一つの在り様ではありますが、某が遠くから兄上の動向を聞いていたところ、兄上はそのような信念なき根無し草のような立ち居振る舞いをしてはいないように見受けられます。兄上の自然体は理解できるにしましても、展望について某はお聞きとうございます」
「…この先の展望か?」
「はい」
信之は根負けしたように話し出す。
「まず、遠からぬうちに大坂から牢人がどこかに侵攻をするのは間違いなかろう。それはおまえの方がよく知っているのではないか?」
幸村は頷く。大坂城にいる5万の牢人衆は徳川に勝利したということで恩賞には預かれた。だが、毛利勝永や長宗我部盛親など何人かを除くと黄金などの動産が中心である。できることなら、土地を与えて権力基盤を磐石としたいところであろう。
「攻め込むのは…おそらくは播磨の池田だろうな。おまえの言うように福島殿が隠居するとなると、池田を倒すことで宇喜多殿の旧領がほぼ確保できる。越前の松平殿を前田殿に牽制させておけば、尾張以東の徳川軍は動けないだろうな」
「…左様でございますな」
「そこから先のことは何とも言えん。池田が降伏するか、最後まで戦うか、あるいは勝つかということまで勝手に決め付けることはできんからな…む?」
信之が障子の方に視線を向ける。
「殿…」
「才蔵か。どうした?」
信之の言葉に、幸村は忍びが情報を持って現れたのだと悟る。
「はっ。加賀越中にして前田筑前守が動員をかけているとのことです」
「前田が…?」
信之がけげんな顔をする。
「数日前に宇喜多殿を迎え入れるべく本田大和守を派遣したばかりだと聞くが随分慌しいな。それにまだ大坂も準備が出来ていないだろうに。あるいは牽制かな。幸村、おまえはどう思う?」
「…某にも少々早すぎるかと」
「まあ、江戸もまだ完全に落ち着いてはおらぬ。早いうちに攻めるのは一つの手ではあろうか。それはいいとして幸村、夕餉はどうする?」
「さて…考えておりませぬが」
「久しぶりじゃ。支度をさせるゆえ、ここで食うて行かぬか?」
信之の言葉に幸村が満面の笑みを浮かべる。
「願ってもなきこと。久しぶりに飲み交わしましょうぞ」
その夜、真田邸では一晩中明かりが消えることはなかった。
二日後。
品川湊に右大臣近衛信尋の姿があった。その傍らには酒井忠世、酒井忠利という江戸幕府老中の二人がおり、近衛信尋を挟んだ反対側に明石全登、本多政重、前田豪らの姿がある。
彼らは一様に海面の遥か遠くに目を凝らしていた。
一刻ほどして、海面の向こうに船の姿が映る。船が大きくなるにつれ、豪が侍女とともに抱き合うように喜ぶ。
「殿…」
「おお、豪。豪か…」
秀家の目にも涙が浮かぶ。別れてから15年が経っており、姿は大分変わっている。かつての貴公子然としたところはなくなっており、むしろ何かに達観した僧侶のような外見である。
「殿、よくぞご無事で…」
「豪、そなたの助けでどうにか生き延びることができた…」
秀家は後ろにいる二人の少年を前に出す。
「おお、孫九郎、小平治!」
「母上!」
二人の少年と豪が強く抱き合う。秀家と政重は涙ぐんでその様子を見ていた。近衛信尋も目頭を押さえているが、酒井忠世と酒井忠利の二人は面白く無さそうに見ている。
「近衛殿。これで良うござるな?」
忠世が近衛信尋に確認する。幕府と大坂との間で秀家とその一族を解放することが決まっていたため、その立会いとしてやってきていたのである。前田家はその身元引受人であり、近衛信尋は不測の事態が起きた時に仲裁役を務めるべく現れてきていたのである。
「左様でございますな」
「それでは、我々は城の方に戻りますゆえ」
幕府からの二人は信尋にのみ頭を下げて、その場を後にする。
「では、宇喜多殿。我々も引き揚げましょうぞ」
役割が終わった近衛信尋は早く戻りたいとばかりに先を急ぐ。秀家、豪が息子達とともに続き、最後に本多政重が見守るようについている。
「本多殿」
その時、不意に後ろから声をかけられ、本多政重はびっくりした面持ちで振り返る。
「む、貴殿は…」
顔に見覚えはある。政重は記憶を辿って、小さく声を出した。
「真田殿ではないか。いかがなされた?」
「いや、何。貴殿に少々聞きたいことがござって」
「某に?」
「前田殿が戦支度をしていると耳にした」
信之のいきなりの言葉に政重が思わず咳をする。その咳に前を歩いていた一同が次々と振り返った。
「あ、いや、面目ござらぬ」
政重は頭を下げて、一同を先に行かせた。姿が見えなくなると、険しい顔で信之を見る。
「そのような話、どこで耳にされたのですか?」
「某のところにも、源次郎ほどではないにしても有能な忍びがおってな」
「……」
政重が参ったというような顔をする。
「して、それが事実と分かれば真田殿は何を?」
「何もせぬ。しようがないという方が正しいかな。ただ、我が所領は犯さずにいただきたい、ということを前田殿に伝えておいてほしい」
「…真田殿の所領?」
政重が唖然とした顔をする。
「仮に我が殿がどれだけ大きな勝ちをしたとしても、真田殿の所領に至ることはなかろうかと…」
政重はそう答え、信之の顔を不思議そうに眺める。信之はほとんど表情を崩さず、
「左様でござるか。それならばそれで宜しいのであるが」
とだけ答えて、本多政重の肩をたたく。
「それでは、よろしく頼みますぞ」
叩いて、そのまま信之も去っていった。その後姿を見送る政重が首を傾げる。
「…一体、何のことなのだろうか?」
各地の大名の動向を追い続けているせいか、ちっとも進まない。11話まで進んでるのに、まだ話は1ヶ月も進んでないし…
話の大筋:大坂・夏の陣で豊臣方牢人衆が徳川家康を討ち取ってしまった。さあどうなっちゃうの? ということで。
これまでの話 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
6月8日。
徳川家康、秀忠の葬儀に先駆けて、伊達家臣真田幸村は江戸にある福島正則の屋敷を訪ねていた。
福島左近衛権少将正則は55歳で幸村より6年年上である。羽柴秀吉の武将として天正11年の賤ヶ岳の戦いで大活躍をし、以降豊臣子飼いの重臣としての地位を固めている。
しかし、政権晩年においては石田三成と対立し、関ヶ原の戦いでは東軍についてその先鋒として激しい戦いを繰り広げた。その功績があって安芸広島に50万石近い領国を与えられていたが、加藤清正ともども豊臣秀頼に対する忠節は曲げず、徳川幕府にとっては油断ならない存在と見られていた。
そのため、大坂の陣では(蔵屋敷にあった8万石の蔵米を大坂方に接収されるのを黙認していたこともあって)江戸に事実上の軟禁状態に置かれていた。
それを、伊達政宗が松平忠輝を通じて、徳川家光に対して解除させることにしている。正式には葬儀の後ということになるが、その前に幸村を通じて折衝をしておこうという意図があった。
そんな政宗の意を受けた幸村ではあるが、彼自身にはまた彼自身の興味があった。幸村はほとんどを上田で過ごしていたのであるから、中央で活躍している福島正則のことはほとんど話でだけでしか聞いていない。豊臣きっての猛将で、徳川家康が恐れて軟禁させていたほどの人物に興味があった。
のであるから、会った瞬間に幸村は声には出さないが大いに驚くことになる。
(これが…福島左近権少将?)
幸村が驚いたのも無理のない話で、初めて会った正則は55歳という年齢以上に老けているように見えた。年齢以上に老けている外見という点では幸村もあまり人のことは言えないが、14年近く紀伊山中に押し込められていた幸村と違い、正則は第一線で長らく活躍していた人物のはずである。それがこうも覇気のない顔をしている人物とは想像もつかなかった。
「お主が真田左衛門佐殿か…大御所を討ち取ったそうだな?」
声もしわがれていて、覇気がない。仮に戦場に出たとして、部下が聞き取れるのかどうかすら覚束ない。
「はい。敗戦間違いなしと思っておりましたが、とんでもない幸運に恵まれたようです」
「左様か…」
正則は下を向いて考え込む。大柄ではあるのだが、今の正則には覇気の無さからも来るのであろうが、それほどの大きさを感じない。
「わしを解放するということだとか?」
「はい。徳川と豊臣の関係改善のためにまた尽力していただきたく存じます」
「大御所を討った貴殿が徳川と豊臣の関係改善というのも不思議な話だが」
「戦場は戦場であり、終わりますればまた別にございます」
「…そのようなものであるか」
「はい。左様でございます」
「だがのう、わしには秀頼公に会わせる顔もない」
「そのようなことは…」
「もう疲れたのだ。わしには清正のように徳川と豊臣の関係を維持するための心細やかなことはできん。もう疲れた。上様にも秀頼公にも隠居を願い出たい」
そう言って、本当にしおれたようにうつむいてしまう。
「…しかし、隠居されれば所領の一部を没収されてしまうことになるやも」
「構わん。今の50万石はわしには重過ぎる。それにわしの息子にしても重かろう。身の丈に合わぬものを持っていても後々不幸なことになる」
「…そう申されますが」
幸村は翻意を促そうとするも、正則は頑として隠居を求める姿勢を崩さない。
結局、最終的には幸村の方が折れることとなった。
「あくまでそう申されるのなら、そのようにしていただくよう取り計らうことにいたしましょう」
福島邸を出た幸村は暗い顔をしながら、伊達邸へと戻ることになった。
(猛将として知られた人物なだけに、政治の舞台での消耗は人一倍堪えたということなのだろうか)
幸村はそう思い、自分も前面に立てばああなるのかもしれないという不安を抱く。
(まあ、某の場合は前面に立つということはないのであるがな)
そんなことを考えながら伊達邸の前に戻った幸村は二人の笠をかぶった男が立っていることに気付いた。
「真田様でございますか?」
「そうであるが?」
二人のうちの一人が笠を取る。
「某のことをご記憶でおられるでしょうか?」
笠の下から老人の顔が現れる。もう一人も笠を取り、こちらは老人よりは若いが似た顔立ちをしていた。
幸村の顔が緩む。
「おお、但馬、但馬ではないか!」
覚えていないはずがない。その男は兄・信之の家老を務めている矢沢頼康であった。とはいえ、その父昌幸の代から重鎮として真田家の中で重きをなしていたし、幸村が若い頃、上杉景勝の下に人質として出された時に随伴もしている。
「お久しゅうございます」
「うむ、そなたが来ているということは?」
「はい。伊豆守様が久々にお会いしたいということで、こちらを訪ねて参りました」
「兄上が?」
幸村は身を大きく乗り出し、危うく馬から落ちそうになるほどであった。
「来ていただけますか?」
「無論だ」
ここに向かうまでの暗い顔つきはすっかり消えていた。
矢沢頼康とともに、幸村は真田家屋敷へと向かった。途中、馬に乗る幸村が首をかしげる。
「いかがなさいました?」
「気のせいかもしれぬが、このあたりは随分と女子が少ない」
頼康が「ああ」と頷くような声をあげる。
「ここだけではありません。江戸自体で女子は少ないのです」
「ほう」
「元々、江戸は大御所様が太閤殿下より移転を命じられて作った人工の街。元から多くの人がいたわけではありませぬ。人を移らせて街を作る場合、男と女子とどちらを優先いたしますか?」
「…それはまあ、男であるな」
「そういうことです。ただ、男女の数があまりにも不釣合いだと心身によろしくない部分もありますから、大御所は公営遊郭を作ることで大きな問題にはしないようにしているのですな」
「なるほどのう」
頷いていると頼康の馬が止まる。
「ここが…」
「はい。伊豆守様の屋敷にございます」
頼康に連れられて入った幸村は、奥の間へと連れられていった。
「殿、源次郎様をお連れいたしました」
「入れ」
短い声に、幸村は襖を開ける。狭い部屋の中に、10年前とほとんど変わらない真田伊豆守信之の姿があった。その信之は、幸村を見て、僅かに目を見開く。
「幸村、老いたな…」
信之の第一声。確かに幸村は年齢以上に老いているように見える。
「兄上は老いませぬな…」
「そうか? これでも大分体は動かぬようになった」
「左様でございますか。しかし…」
幸村は兄の前に正座する。すぐに頼康が部屋を出て行き、変わって侍女が茶を持ってきた。
「む?」
「先ほどお会いした福島殿は某より遥かに老いてござった」
信之の顔が真顔になる。
「…左様か」
「某も九度山で辛酸を舐めましたが、福島殿も相当に辛い状況にあったのでありましょうな」
「だろうな。あの御仁はそういう駆け引きができる仁ではない」
そう言って、小さく笑う。
「伊達殿は福島殿を使って豊臣と徳川の関係をつかず離れずにしておきたいのだろうが、それは難しいだろう」
「…見抜いておられたか」
「俺も伊達に荒波の中を泳いではおらんからな」
「では、兄上はこれからどうなると思います?」
「さあ…」
信之はすっとぼける。
「さ、さあ…というのでは」
「分かるわけがなかろう。そもそも、おまえが大御所を討つなどということ自体、一体誰が予想できていたというのだ? おまえだって討てるという見込みは半分もなかったのではないか?」
「…それはそうなのですが」
「武運というのはそういうものだ。俺は父上やおまえには到底及ばぬが、その父上やおまえでも戦の全てを見通せるわけではあるまい。まあ、父上の場合は兵数が少ない戦が多かったから、誤算の範囲も少ないし、ある程度見通しも立てられたのやもしれぬが、仮に父上が大坂にいたとしても、戦の全てを見通すことは無理であったろう。そもそも戦いを見通せなかったから、父上とおまえは関ヶ原で西軍についたのであろうしな」
「……」
「おまえは息子を大坂に残していたらしいが、それも結局は見通せぬからであろう?」
「その通りです」
「別に責めているわけではない。それが普通なのだ」
信之モードのまま続く?
話の大筋:大坂・夏の陣で豊臣方牢人衆が徳川家康を討ち取ってしまった。さあどうなっちゃうの? ということで。
これまでの話 1 2 3 4 5 6 7 8 9
その頃、大坂では先の合戦での功労者に対する領地分けが行われていた。
豊臣家が自由にできる領土自体は和睦で手に入れた近江と大和のみであるが、元々が牢人ばかりであるため、その配分に困るほど、ということはない。
その領地分けは何度かの議論の末に以下のようになった。
最大の殊勲者は真田幸村と毛利勝永であったが、幸村が出奔してしまったため、毛利勝永が近江彦根周辺に25万石を有することになった。家康を討ち取ったとはいえ、この突出した待遇には多くの者や他ならぬ勝永本人も驚き、当然異論も多く出た。だが、淀の方、秀頼らが強く主張したことで最終的には容れられることになった。
次の殊勲者である前田利常には近江長浜周辺に12万石が加増された。前田家は132万石となり、徳川、豊臣を除いては他の大名家を突き放した感がある。しかも、その前田利常には越前切り取り自由の沙汰が下されたため、これが実現すれば松平忠直を追放すればという条件がつくが、200万石に迫ることになる。
その他、長宗我部盛親、細川興秋、内藤元盛らがそれぞれ大名となり、その他活躍した牢人も活躍に応じて1000から5000石の領地を与えられることになった。
もっとも、全てがうまくいったということではなく、例えば大溝4万石を与えられた長宗我部盛親はその沙汰自体には満足しつつも、将来的にはという条件で先祖伝来の土地土佐の領有権を求めた。
しかし、これに対しては、
「現実として山内家が治めている今、そのような主張を通すは無理ではござらぬか?」
と毛利勝永や明石全登に諌められて断念している。
その明石には与えられた領土はない。
しかしながら、彼の元主人であった宇喜多秀家の復帰が決まり、しかもその秀家には大和郡山に24万石が暫定的に与えられたため(備前等従来の本拠地については保留)、功績としては毛利勝永にも劣らないことになる。
6月になると、大坂城ではようやく戦後処理が終わり、次に向けての準備を進めるようになっていた。
次の準備というのは、まずは大坂城の再構築である。冬の陣の後に堀を埋め立てられていた大坂城は城としては非常にみすぼらしいものになっており、これを増築する必要があった。
その指揮を任されたのは藤堂高虎であるが、これ以外に多くの大名に対して、協力を呼びかけた。もちろん、城普請を名目として多くの大名に対する豊臣家の影響力増大を狙ったものであることは言うまでもない。
これに対して、夏の陣で大坂方についた牢人上がりの大名と前田利常はいち早く協力を宣言し、それ以外では毛利輝元、島津家久、黒田長政、生駒正俊も協力を約束した。
秀頼はこれら協力を表明した大名に対しては謝礼を条件に大坂へ挨拶に来るように要請し、それ以外の大名家の中でも脈がありそうなところには再度城普請への協力を要請する。
この二回目の協力要請は最初のものに比べるとやや強気な内容となっていた。すなわち、断りようによっては実力行使もありうる、というような内容をちらつかせたものだったのである。
阿波・徳島城。
蜂須賀家政はそうした秀頼の強気の書状を受け取った一人である。
元々、蜂須賀家は家政の父である正勝が秀吉の側近として名前をあげた家である。従って秀吉恩顧の大名ではあるのだが、その息子家政は名前もそうであるように関ヶ原の時から家康寄りである。
しかし、大坂の陣でその徳川家康、徳川秀忠が戦死したことでそうも言っていられなくなった。
家政は息子の至鎮を呼んだ。
「大坂から再度の城普請の協力要請が来た」
家政は大野治長からの書状を息子に投げ渡す。至鎮はそれをざっと流し読み、一つ咳をして父親を見上げる。
「どうされるおつもりですか?」
「聞くと、江戸は家光公を新将軍とする方針で固めたという。だが、伊達と佐竹あたりの主導権争いはまだ続くであろうから、当分は西には手を出すまい」
「畿内では豊臣方大名の配置換えが進んでいるという話です」
「全員石高が増えたのであるから、不満など起こるはずもなかろうから、すぐに終わるだろうのう。しかも大坂にはまだ牢人衆5万が残っておる。戦経験の豊富な浪人どもが、だ」
家政は溜息をついた。
「讃岐の生駒があっさりと恭順した以上、わしらも攻め込まれる候補になるやもしれぬ」
「なるやもしれぬ、ではないでしょう」
息子は父親の言葉を厳しく制する。
「豊臣が攻め込むのは事実上、播磨か阿波の二つしかありませぬ」
「……」
家政はまた溜息をつく。そんなことは息子の至鎮に言われるまでもなく分かっていた。
尾張以東に攻め込むという徳川本家との直接の再戦はありえない。和睦をしたばかりであるし、徳川と再戦をするほどの力は今の豊臣にはないからだ。しばらくは幕府内部の主導権争いを活発させようという程度にとどまるであろう。
それ以外の候補としてはまず越前がある。ただ、越前については前田利常に切り取り自由の沙汰を与えたことにより、豊臣家が直接に参戦する可能性は低い。
京を一応押さえたことからその基盤を確固たるものにするべく丹波に攻め入るという考えもあるが、丹波は小大名が多いので、5万の牢人衆を向けるには適した相手ではない。当分は調略や外交政策によって取り込もうとすることが予想される。
そうである以上、豊臣家の攻め込む先は播磨、四国に限られる。四国について言えば讃岐の生駒正俊が協力を約束したのだから、順番からいけば次は阿波ということになる。
播磨は備後・因幡、淡路と池田氏の所領であり、播磨の池田利隆がその宗家筋である。池田氏は先代の輝政が徳川家に近づいて家康の娘をもらったことで徳川恩顧となっており、利隆も秀忠の養女を正室にしている。豊臣家にしてみるとうるさい存在であり、これを叩いて所領を没収することができれば豊臣家に近い毛利や九州と直接繋がることになる。
と考えると、池田氏を駆逐するということになりそうであるが、家政はそれよりも阿波に攻め込む可能性が高いと考えた。理由は大野兄弟や淀の方の感情的な部分である。
池田氏は徳川恩顧であるが、元々は織田信長の家臣から出てきた身である。秀吉とは元々は同列であり、敵対勢力という認識は抱いていても、それを感情的に許せる部分がある。
それに比べて、蜂須賀家はまごうことなく豊臣家臣でありながら、現在は敵対している。このあたり、大野兄弟や淀の方には「裏切り者」に近い思いを抱かせており、彼らの感情的な部分は単純な打算を超越するだろうと予想していた。
仮に播磨の池田の牽制を毛利が引受ければ、豊臣方5万が阿波に攻め寄せてくることになる。蜂須賀氏では到底されだけの軍を迎え撃つことはできないし、下手をすれば讃岐の生駒、伊予の加藤嘉明も攻め寄せてくる可能性もあった。
「山内はどうするかのう」
仮に支援の可能性があるとすれば、蜂須賀家と同じく徳川の恩顧で国持ち大名となった山内家ということになる。
「おそらく豊臣方につくのではないかと…」
「……」
これも息子の読み通りだと家政は感じていた。繰り返し溜息をつく。
「今後も徳川家について確固たる地盤を築くはずだったのだが、世の中はうまくいかぬものだのう…」
「やはり最低限の協力はせざるをえないでしょう」
「うむ。人夫だけ派遣して、形だけ協力しておくことにするか」
「播磨の池田攻めをさせるための策も練っておきましょう」
「…できるか?」
「できますとも」
至鎮は自信に満ちた顔で答えた。
翌日、阿波から協力のための人夫を派遣する旨の書状が大坂へと送られる。
それより一日早く、土佐の山内忠義から協力を約する旨の書状が大坂へと届けられていた。